エヴァ考察と認識の共有ブログ

新世紀エヴァンゲリオンの考察を通して新しい時代の認識を共有するブログ

エヴァの呪縛と人類新アダムス化計画 ~ ゼーレの矛盾とシンの真実 ~

 

今現在人類の身に起こっていることの抽象化と

新世紀エヴァンゲリオンというアニメにおける

人類補完計画というものへの概念的な理解

という方向でブログを書いてきた

 

やはりこのブログが伝えたい重要なメッセージは

最初の記事に詰まっていると言えるだろう

しかしながらさらにブログを綴っていくことで

「最初の記事を何周もして概念的理解をさらに深めていく」

そういう方向性にこのブログは向かうものと思われる

ぜひ何度も読み返して参考にして頂きたい

 

さて今回は「エヴァの呪縛と人類新アダムス化計画」という

タイトルになっている

軽く記事にして後ほど修正の予定だが

まず「旧劇場版では人類の救いとなる可能性があったエヴァンゲリオン」が

「新劇場版では呪縛という程忌まわしきものという扱いになっている」ことに

気づくべきだろう

旧劇場版と新劇場版では「エヴァンゲリオンの定義にすら抵触している」

その定義付けの変更と誘導がどこに向かっているのかはこれから見えてくるのだが

 

まずエヴァの呪縛である

大まかに語っていくが

エヴァンゲリオンに近づきすぎることでエヴァの持つ生命の実の影響を受けることで

年が取りにくくなる」というものだ

それをQやシンなどの新劇場版では「エヴァの呪縛」として描いている

そしてQやシンエヴァでも見える通り「呪縛に触れているパイロットの精神的苦悩」

この辺もシンジやアスカで描かれていると見ていいだろう

旧劇場版での「パイロットとしての苦悩」ではなく「パイロットであることの苦悩」

へと変質している

こういった1つ1つの事象の変化を見逃さないことでエヴァ考察においても

得られる理解は深まるだろう

 

そしてエヴァの呪縛において触れておかなければならないことがもう1つ

ゼーレやゲンドウがエヴァを忌み嫌っている、という表現である

ゼーレは早くからエヴァが救いだとしてもその船に乗ることはないと言及しており

ゲンドウもエヴァを造る目的はユイに会うための道具・乗り物としての存在

ゼーレやゲンドウ達がエヴァンゲリオンを忌み嫌っていることは重要なポイントだ

 

そして次に人類新アダムス化計画

ゼーレが目論む人類補完計画を正しく表現すれば人類使徒化計画、或いは

人類新アダムス化計画、となるのだろう

ゲンドウの人類補完計画も行き着く先はゼーレの計画する人類補完計画となるのではないか

シンエヴァでのゲンドウの願いはATフィールドがなく人類が単一の心を持ち

ユイと安らかにいられるというもの

ユイへの望みはあるも基本的な部分はゼーレが最初計画していた人類補完計画に近い

ここからもゼーレの人類補完計画とゲンドウの人類補完計画

人類に望む形において基本的な部分は同じだった、ということが分かる

 

両者の人類補完計画の共通点は見えてきた

次に人類新アダムス化計画へ踏み込んでいく

 

evashare.hatenablog.com

 

この記事でも書いてきた通り

「ゼーレとゲンドウはアダムとリリスを神とするならば神殺しの計画を行い

そのさらに上位の神には適わないためさらに上位の神の僕として

生命の実を得、知恵の実を手放し自分達が次に

そのアダムやリリスのポジション、席に座り込もうとする」 

これがゼーレやゲンドウが修正に修正を重ねた最新の人類補完計画と言えるだろう

それが現実とリンクしていると、人類全体が感染症を煽られ生命の実を得て

知恵の実を手放した結果、人類は集合となり単一の新たな巨人として上位の神の僕となる

それが今現実で起こっている生命の実と人類補完計画の中身である

別の表現で言えば人類は生命の実を得て知恵の実を手放させられることで

使徒化する・・・、人類の多くが生命の実を得てしてしまうことで巨大化もいずれは可能になり単一の集合体の可能性も見えてくる

それはつまり人類の新アダムス化計画と言えるではないだろうか

 

というわけでエヴァの呪縛と人類の新アダムス化計画の2つについて詳細に分析してきた

しかし見てくれた方はこの2つの事柄に関して違和感を覚えなかっただろうか?

ここからが今日の本題である

ゼーレやゲンドウは新劇場版においてエヴァに近づくことで

生命の実の影響を受けることをエヴァの呪縛と表現し

エヴァンゲリオンを忌まわしいものと表現してきた

しかし、しかしだ。よく考えてほしい

人類が今感染症で煽られ世界各国が人類に生命の実をチクッと身体に入れさせようとしていること

これら2つは全く同じことなのである

この事にエヴァ考察者の何人が気づいているだろうか?

Qとシンエヴァではエヴァを忌まわしきものとする、しかしその一方で

その忌まわしき影響を与える生命の実を人類の身体に取り込ませようとしているのである

これは大大大矛盾だ

要は同じことをやっているのである、にも関わらず一方を忌まわしきものとし

一方を感染症から抜け出すための最善たるものかのように伝えている

こうして分析して整理して初めて分かることだがこの扱いの違いは明らかにおかしい、異常である

これがこうして辿り着いた本日の記事のサブタイトルにもある

「ゼーレの矛盾とシンの真実」である

ここまで辿り着いたならそのゼーレの思惑は目に見えている

あなたはその答えを分かっただろうか、では見ていこう

 

なぜ同じ生命の実を扱うことであるはずなのに

一方でエヴァンゲリオンであればエヴァの呪縛と忌み嫌い

一方で人類に与えられた天恵の様な扱いなのか

それは・・・世界人類全体を人類新アダムス化計画に誘導するためだったのである

これまでの旧劇場版と新劇場版からの内容なら

例えばエヴァファンや人類が人類補完計画に向かうなら

エヴァンゲリオンという概念からの卒業は必須と言える、と理解できるだろう

ゼーレやゲンドウの人類補完計画は人類が新たな路へ歩み出すものだ

そのためにはエヴァンゲリオンという概念からの卒業、概念からの解放が必要なのである

逆説的に言えば新劇場版を見るエヴァファンと人類からエヴァンゲリオンを引き離せばいい

ここに辿り着くことでようやくサブタイトル「シンエヴァンゲリオンの真実」が見えてくる

シンエヴァの大団円は何のためにあったのか、それは

世界の人類とエヴァファンをエヴァンゲリオンという概念から引き離し

強制的に感染症への対処として生命の実を何も分からぬまま身体に入れさせ

現実的な人類の危機、人類補完計画へ誘導するためである、全てはこのためにあった

冷静に熟考していけばこの結論が見えてくるだろう

 

逆説的に考えたら世界人類とエヴァファンをエヴァンゲリオンという概念から引き離すにはどうすればいいか

それはエヴァンゲリオンを忌まわしきものとすること、である

旧劇場版では人類の希望だったエヴァンゲリオン

新劇場版ではエヴァンゲリオンを良くないもの、忌まわしきものとして人類とファンに植えつける

それにより世界人類とエヴァファンとエヴァンゲリオンという概念との距離が生まれる

そうして人類とエヴァファンをエヴァンゲリオンから引き離した後

欺瞞と矛盾の塊かのような生命の実を人類の身体に入れさせようと誘導したのである

これが目に見える様なシンエヴァンゲリオンの恣意的な思惑であると言えるだろう

だから新劇場版ではエヴァンゲリオンを忌まわしきものと再定義し植えつけ

エヴァンゲリオンパイロットはその忌まわしき力に加担するものと植えつけた

それが恣意的な思惑と誘導にまみれた新劇場版エヴァンゲリオンということだ

 

いかがだっただろうか、旧劇場版と新劇場版で引っくり返ったエヴァンゲリオンの定義と概念

そうして長くエヴァンゲリオンに親しみを抱いていた

人類やエヴァファンの見ている印象すら強制的に変えてしまう

それが新劇場版のエヴァンゲリオンに重ねられた思惑と意図だったということ

同じ生命の実であるはずなのに一方は忌まわしきものとし一方は天恵かの様に表現

シンエヴァンゲリオンを見た人類とエヴァファンを人類補完計画へ速やかに誘導するためである

シンエヴァンゲリオンの真実、知らずして本当にシンエヴァンゲリオンを理解することはできないだろう

シンエヴァンゲリオンと新劇場版は何のために作られたのか

全体と背景を冷静に見て初めて見えてくるものがある

 

 

こうして理解して初めて言える、人類とエヴァファンが抱かされたエヴァンゲリオンとの疎外感、気にする必要はない。

我々とエヴァンゲリオンは無理矢理引き剥がされる必要はない

ものごとの純粋な意思を見るには濾過が必要だ、ここまでシンエヴァンゲリオンを漉してきた、そして見えてきた純粋なエヴァンゲリオンへの思いと変わらない気持ち

卒業したのではない、させられたのだ。半ば強制的に

生命の実を身体に入れさせられ知恵の実を失いエヴァンゲリオンすら手放させられたらプログラムで動く何かにはもはや何も残らない

欺瞞にいつまでも踊らされていては本質が見えなくなる

本質を見る目を養い続けることだ

 

エヴァンゲリオンから卒業する必要は今はない、それとともに人類は自らの意思で自らの道を歩めばいい

それが人類の人類による人類のための唯一の道だ